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愛宕神 >


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流派歴史


流派のはじまり
竹内流の流祖=竹内中務大輔久盛(たけのうち なかつかさ たいふ ひさもり)は、
清和源氏経基王の子孫と云われ、美作国久米北条郡垪和郷一之瀬城主でした。
しかし戦国武将にあって、身の丈5尺余り(150cm強)の小兵である久盛の体格
は恵まれたものではなかったといわれ、覇権争いの激しい美作(みまさか)の地で
勝ち抜く為、日頃より武芸の研鑚を積み重ねたと言います。
一之瀬城を離れ、垪和郷三ノ宮の境内に参篭し六日六夜の間、穀を断ち、大樹を
打ち続ける修行の最中、山伏の姿で現れた「愛宕神(あたごしん)」により、
小具足組打腰之廻…二十五ヶ条、ならびに捕手…五ヶ条を授けられたと云われま
す。
時は、天文元年(1532年)6月24日と云われ、この日を「流派創設の日」とし、
現在も旧暦の6月24日に流派の創設を祝っての神事、奉納演武を行う「流祖祭」
を行っています。

流儀の完成まで
時は戦国時代、覇権を争う実戦の中で小具足組打腰之廻は磨かれていきましたが、
天正8年、一之瀬城は宇喜多家の攻撃により落城します。
再興を図るも、既に中国地方は毛利勢対織田勢(羽柴)の様相により再興を断念、
帰農して武術に専念する事を決めます。この時、久盛は息子達に以下の様に諭した
と言われています。
「もう勢力争いで殺し合う時代ではない。これからは、敵を求めて倒す武術ではなく
 己の心身を練磨し、身を守る技として武術を磨いて行きなさい。
 そしてこれからは農業で生活し、子々孫々に至るまで二度と仕官してはならない。」

この家憲「宗家の武家奉公止め」は、多くの大名からの「武術師範として召抱え」の
要請を固辞し続け、江戸幕府の終焉を迎える時まで、破られる事無く守り続けられ
ました。
2代久勝は、流儀継承後に京都に道場を構え、元和6年「後水尾天皇」に演武上覧
を供し、「日下捕手開山(ひのしたとりてかいざん)」(日本における捕手術の開祖
の意味)の称号を賜ると同時に「宮中羽林(きゅうちゅう うりん)」(天皇護衛役)
に任ぜられます。
その後、関白近衛公にも奥義の披露を供し、それを見た近衛公はすっかり関心して
入門したと伝えられ、その際に自ら冠の緒をといて捕縄の縄として使う事を許した
とも云わります。 ゆえに竹内流が紫色の縄をもって定法とする様になったと言わ
れています。
3代久吉も、寛文3年に関白鷹司公の世話により霊言天皇より「日下捕手開山」
の称号を賜ると同時に、永代「藤一郎」襲名の許しを得たといわれます。
これ以降現代に至るまで宗家を継ぐものは「藤一郎」を襲名しています。